大人の思春期・光ブログ

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【勝手に考察】いじめがなくならない理由~人間の野生本能と集団という力

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人の行動とは本当に不思議なものです。

個人の時と集団に属した時で行動の信念が変わってしまうのはなぜなんだろう?

そんな長年の疑問が少しだけ解けたので書いておこうと思います。

 

いじめにおける集団の狂気

私の見解としては「いじめ」って加害者の個人的人格がストレスにより凶暴化・残忍化・陰湿化して弱い者を傷つけることで発散している行為と長年思っていました。

特に家庭のストレスが家庭以外の場で発散されてるのかな?と。

これはそんなに見当違いでもないと思うのですが

その先に大きな疑問が小さいころからあったんです。

 

・いじめというのはなんでエスカレートするのか?

 

・集団や小さいコミュニティ内では人の残忍さや凶暴さが増幅するのはなぜか?

 

・個人個人「いじめはいけない」「相手は傷ついている」とわかっているのに

なぜ更なる残虐さを発するのか?

 

何となく主犯格のストレスや人格のゆがみ以上の何かがあって

「いじめないといじめられる」以上の何かが集団の結束を強めているし、

苦しむ人を見て更なる苦痛を与えられるという異常さの奥にあるのは何か?

 

特に集団における狂気は恐怖を感じていました。

 

いじめが継承さる理由と狂気の先の快楽

学校時代の部活や社会人になっても新人いじめってあったんですよ。

まだ新人いじめは中学生の頃部活で経験したんですが

もう伝統でしたね。

でも年々軽減はされてましたが 「辛い思いを絶えた先輩」からすると

「新人の態度が気に入らない、私たちの頃は!」って思いが連鎖しているんだと

思います。

虐待された子が親になったときに虐待してしまう構図に近いのかな・・と。

 

精神的・肉体的苦痛って無意識の深いところに刻まれちゃうんですよ。

生きる中で感じる危険は命にかかわりますから。

理性なんかが及ばないエリアに刻まれちゃうんですよ。

 

故にその状況が起こった(新人がはいってくる)時に自然と無意識に刻まれた行動を再現してしまうんだと思います。スイッチ押されちゃうんでしょうね。

そしてひとたびいじめをはじめるとエスカレートしちゃうんです。

 

エスカレートするのは人がどんなに賢くなっても、信仰をもってしても

本能的に野生の凶暴性を秘めているからでしょう。

野生の時から生き抜くための大事な本能の一部としてあるんですよ。

そして日頃抑えられているからこそ ひとたびスイッチがはいって

凶暴・残忍さが出た時に快楽さえ感じてしまっているのかも。

 

快楽というのはおそろしい麻薬ですからね。

人が狂わせてしまうんです。

 

理性なんかより強いですよね。

 

社会的力で抑えてもなくならないアメリカの新人いじめ

南アフリカのツォンガという部族での割礼儀式

「割礼学校」に送られるた少年たちに待ち受ける壮絶な死にもいたる経験

この期間に少年たちは殴打・寒さ・渇き・まずいモノを食べる事、体罰、死の脅威という6つの試練を耐え抜かねばならない。

親たちは儀式の内容を知っていながら息子をその儀式に送りだすのです。

 

◆アメリカの大学で行われる伝統的な「地獄週間」

学校のフラタニティへの参加儀式でも

入会希望者は「地獄週間」の間、体力・精神力・羞恥心の限界を試す試練に

耐えなければならない。

 

実は内容はアフリカの部族の儀式に似ていて

殴打・寒さ・渇き・まずいモノを食べさせる・体罰・死の恐怖

で実際に死者も出ている点も酷似している。

 

そして特徴的なことがこの習慣をやめさせようと大学側が動いても

政治的な機関が動いてもなくすことができなかった点です。

 

結局は学生たちが求めているのです。

闇に隠れて行われるか、抑えようとしたことで暴動となってしまい

もう大学側も抑えることをあきらめた状況があるようです。

 

なぜなくせないのか?

なぜ経験者がこの悲惨な儀式の存続を求めるのか?

 

実に不思議だと思いますが社会学者の見解は

『何かを得るため大変な困難や苦痛を経験した人は、苦労なく得た人よりも

得たモノの価値を高く見積もるようになる』

ということらしいです。

 

つまり「地獄週間」を乗り越えた大学生はその集団に属する自分の価値、

その集団の価値をとても高いものと評価するんだそうです。

集団に魅力を感じるんだとか・・・。

集団としても忠実で献身的なメンバーが入ってくれば集団の結束と存続が強固なものになるのです。

 

人というのは自分の価値を高く認められたいし、苦痛に耐えた達成感と魅力的な集団に属することで孤独からの解放と選ばれたものの一員というステイタスを得るのでやめられないのでしょう。

 

快楽や魅力や自分の価値が高くなった錯覚は抑えられないけど

結局、人間がいくら賢くなって知識をつんで理性的であろうと頑張っても

抑えきれない野蛮な野生が解放されその時には抑えられたいた分の快楽と

魅力と自分の価値が高くなったような錯覚までコンボされたら

いじめの根絶は無理だろう。

 

世界的・社会的にみれば無理なのですが

自分を取り巻く世界くらいは変えられます。

 

自分の価値は自分で認めればいいし、

集団に属さない自分を大事にすればいいし、

ストレスはこまめに好きなことして発散すればいいし、

人を傷つけそうになったら止まればいいし、

自分が生きる実際の世界はそんなに大きくないからいくらでも変えられますよね。

 

世界も社会も変えなくていいけど

自分が自分をしっかりコントロールできれば大丈夫。

自分にも本能的に凶暴な部分・残忍な部分があると知っていれば

自分の暴走だけは止められると思います。

 

ついつい思考ってオートになりがちですが

それを自分でとめて考える週間がつけば人生の間違い犯す確率は限りなくゼロにできる。

 

そんなことを考えておりました。

 

きっかけはこの本のです。

 

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